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現代美術にみる身体性としてのテクノロジー


A Study on Technology Including Pysical in Modern Art
Work ; “Inside”

第四章 修了制作報告

第二節 人間の根源的なものへの帰還

 この論文の中で,テクノロジーの発展による人間の身体観の変容をみてきた が,同時に,決して変わることのない人間の中に潜む領域についても明かにな ってきた。それは,人間の中にある本能的ともいえる無意識の存在である。世 の中がどんなに変わろうとも,生物学的な意味での人間は,人間そのものであ り,DNAに支配された本能は受け縦がれてゆく。それは,変わりようのない 事実であり,そうしたことの前提の上に,現代のテクノロジーとアートの役割 が成立しているといえる。

 修士課程での2年間は,芸術表現における理論と実践の研究の場であったと 同時に,以前から感じていた人間の身体、生命,精神といった神秘性を,自ら の体験を通して実感する機会を与えられた。それは,出産という人間が種族を 受け継ぐための本能的な行為であり,決して特別ではない人間としては当然の 行為である。その予兆は,昨年秋に制作した《Namerical Value≫にみること ができる。この作品は,それまでの自分の表現や発想とはどこか異なり,人間 の生命の象徴である心臓音に重点を置き,身体性とテクノロジーの関係を強く 意識したものだった。鳴り響く心臓音がコントロールする空間は、人間の精神 までをもコントロールする。この発想の背景にあるのは,だれもが経験する胎 児期の記憶によるものであり,そこで表現された空間はまさに子宮の中の再現 に他ならないものであった。しかし,その当時は,その発想の原因がどこから 来るものかは分からずにいたのだが,ちょうどこの作品を制作期間中,新しい 生命が私の中で芽生え始めていたのである。

 《Namerical Value》制作後は,妊娠,出産という私の中で起こる変化と共に、時間を費やしてきた。日に日に重く、大きく変化する自分の腹部と、中から起こる胎動、さらに超音波断層写 真でみる新しい生命の姿は、出産に向けての母親への自覚を高めるものであった。自分の意識とは別 のところで、本能にしたがって自分自身が変化してゆくという神秘性を感じながら,それを自然に受け入れていった。そこにいる自分は、作品を通 じて表現してゆこうとする自分とは別の、一人の女性としての姿だった。自分が女性であること、そして新しい生命をこの世に生み出す使命を持った存在であることを実感せざるを得なかった。そういった感情は出産時にピークに達したものだった、出産の瞬間は,感情というよりもむしろ感情を越えた動物的な本能に,全てを支配されていた状態であったといえる。そこには理性といったものは全く存在せず、激しい痛みとともに、ただ本能のままに身を任せているだけだった。そして,初めてみる自分の子供を抱いたときに込み上げてくる感情は、いったいどこから来るのか、ついさっきまでの痛みや苦しみが吹き飛んでしまうほど、新しい生命に対するいとしさと幸福感で、私の中が一杯になってしまっていた。全ては種族継承のための、遺伝子に仕組まれた感情に過ぎないのかもしれないが,それでも私は女性であることに喜びと誇りを感じることができた。

 これらの体験は、これから作品を通じて表現してゆこうとする私にとって、 強いインスピレーションを与えられたものであった。それは、テクノロジーに よって世の中が変わり、人間の身体観までもが変わろうとしていても、太古の時代から変わることのない生命としての人間が存在しているということである。 そういった人間の中に眠る、決して変わることのない領域こそ、芸術によって 触発されるところなのではないだろうか。

 これらの体験で、特に注目したのは全ての人間が持つ胎児期からの記憶であ る。普通、人間は胎児から出生後までの記憶はないが、母親に守られ愛情を受 けながら成長してゆくこの時期こそ、人間としての根底的な部分が形成される という重要な時期になる。胎内にいるときの母親の精神状態が、出生後の健康 面や精神面に影響を及ぼすといわれるが、いかに胎児期が敏感であり、胎児に 関する全てが母親によっていることがわかる。つまり、胎児と母親は身体面 の みならず、精神面においても共生関係にあるといえる。全ての人間は、羊水の ぬくもりに守られながら人間の核となるところを形成してゆく。この時期に与 えられた安心感は、記憶の奥に眠りその後、何かを契機とし断片的な感情とし て意識にのぼることがある。そのぬくもりの感情は,安らぎとともに人をいや す。

 いま、都市において忙しさに追われる現代人の間で、“いやし”という言葉 が、心理的なよりどころとして特別な意味を持ち始めているように思える。そ れは、社会が片寄った形で発展してきたことを反映していて、その際に忘れ去 られたものは、人間の根源的な部分と関わりあっているのだろう。そこでいや しを必要とする人間の根源的な部分とは、上でみた胎児期の記憶と重ね合わせ ることができる。それは,第三章で触れた《アイソレーンョン・タンク》が、 まさに好例であり、さらにその部分が芸術が果たすことのできる役割といえる だろう。そして、それを可能にするものは,またテクノロジーによっているこ とも忘れてはならない。

 私は以前から、女性である自分の感性に従って表現してゆきたい、という理 想をもち続けてきたが、私が目指す女性的で、母性的でもあり得る空間作りと いうのは、自分が母親になって初めて成し得ることができると確信していた。 それは、作家としての自分の感性が、そういった経験により磨かれるものとし て期待したものであった。

 どんなにテクノロジーが進歩し、芸術表現としての形態と手法が変化してゆ こうが、その根底にあるものは、作家の感性によって、作品を媒体として観賞 者の感性に訴えかけるという行為であるということを忘れてはならない。その 感性を触発される領域こそ、人間の奥深くに存在する本質的な部分であるとい える。新しいテクノロジーを用いた初期の芸術表現にみられがちな、技術の目 新しさのみが先行してしまうものは、そういった芸術の本質を置き忘れた物で あるといえるだろう。しかしそのような過程を踏みながら、手法と表現内容の 一致を見たときにはじめて、人の心を打つ作品が再現されるのではないだろう か。そういった観点からして、現代のテクノロジーアートは発展段階にあり むしろ、新しいコミュニケーションを人間に提示することから、大きな可能性 を内蔵した表現ツールとなりうるだろう。