現代美術にみる身体性としてのテクノロジー


A Study on Technology Including Pysical in Modern Art
Work ; “Inside”

第三章  交感する精神とテクノロジー

第一節  非物質的な身体観

 心、精神、意識といった問題は、新たな時代を間近にしている現在にあって、芸術がまず取り組むべき課題となっているだろう。ルネッサンス以降、数百年もかけて発達してきたテクノロジーは第二次世界大戦に死んでしまったといっていいのかもしれない。それまで数世紀にわたって、伝統的な造形芸術においては、私たちの視線は事物の表面 的な外観並びにその表象に向けられてきた。しかし、今日、私たちの注意は不可視のものに向けられている。というのも、それまではテクノロジーといえば機械技術のことであり、テクノロジーの変化とは、メカニカルな物理的変化を意味していたのだが、20世紀後半に登場した電子テクノロジーはそのモデルを人間の脳や神経を始めとする生体内部で行われている生科学的、電子的なプロセスに求めるようになったという時代背景に大きく関わっている。そうしたテクノロジーは最終的には物質を変えるだけではなく、非物質的な側面 へも深く介入してゆくことになる。同じような指摘をマーシャル・マクルーハンもまた『人間拡張の原理』の中で繰り広げ、これまでのテクノロジーが結局は我々の身体のいずれかの部分の拡張なのに対し、新しいテクノロジーは大脳も含めた中枢神経組織それ自体を外在化したものであるという言い方で表わしている

 エレクトロ・テクノロジーはこれまでのコミュニケーションシステムに大きな変化をもたらし、人間は物質や重力の支配から逃れ、非物質的な世界へ入り込もうとしているのかもしれない。1980年代以降の高度情報化社会の様相が明確にに指し示しているように、時代は重工業生産や動力機械を中心にした世界観から脱皮し、テクノロジーは巨大な外皮のような機械に変わり、自動性と遠隔性ということを軸とし、物質的なものから非物質的なものへと移行しているが、人間もその流れとともに自らの物質的な身体環境を失い、非物質的な容器の中へ組み込まれ始めているのではないだろうか。 第2章でのメディアの身体化の中でもみたように、テクノロジーはもう私たちの周りにあるのでも、私たちを取り巻いているのでもない。ある意味で、私たちの身体や生命は新しいネットワークの中に組み込まれているといえるのかもしれない。そして、今日、物質主義が飽和点に達した先進国において、人々の関心は内世界に向かいつつあるといえるだろう。

 1956年に出版されたジョージ・ケペシュの編集した『ニュー・ランドスケープ』と名付けられたイメージ集は、<芸術と科学の中の新しい風景>というサブタイトルがついていて、出版され、同時に展覧会が開かれるやいなや、新しい芸術や科学を待望する人々の間で大きな反響を呼び起こした。「ニュー・ランドスケープ」の中でケペシュは、これまでの生物学、物理学、心理学、数学、芸術学などに対する我々の理解がこれまでいかにダイナミックな関連性と幅広い総合力とに欠けていたかを明らかにし、科学や技術が可能にした新しいイメージを通 して我々の視覚や思考を大きく揺さぶってくる様々な方法を仕掛けていた。これまでの美術史や美学ではもはや解決のつかなくなった芸術の問題に対してケペシュは、「ニュー・ランドスケープ」という概念によって取り組もうとしたのだ。そしてケペシュはまず第一にかつての世界とは構造も次元も異なる新しい世界の中に我々が入り込んでしまっていることを認識しなければならないと主張する。今までの人間の作業が無効になってしまってしまうような時代空間の中へ入り込みつつあるというのだ。私たちのこれまでの基準では測定されることのない種類のイメージが様々な形であらわれてきている。

 これまでたどってきたことからも、私たちが今、新しい認識の場に立たされていることが分かるはずだろう。私たちのこれまでの認識方法が非常に限定されたものであった。かつては、人間を規定するのは物質的身体だったが、これからの時代はこれまでとはまったく違った認識の仕方を求めているといえる。かつて私たちは「物の世界」をつくりあげて、その中で身体は、自己を中心におき、自己は他の一切を観察し、測定し、理解する主体として存在していた。しかしこれからの新しい時代環境は、自己を固定した固い型として捉えるのではなく、振動する流動的な場として捉えることが求められている。

 この科学技術の進歩の結果に得られた新しい流動的な身体観は、実は人間が本来持ち合わせている精神の在り方にもおおきく関わっている。ジョセフ・チルトン・ピアスの『マジカル・チャイルド』には、「ドリーム・タイム」という不思議な意識状態のことが触れられている。3万年以上も前、オーストラリアの原住民アボリジニは、その「ドリーム・タイム」という心の「セット」で行動していたというのだ。彼らは今という瞬間から「ドイーム・タイム」へ移行することによって私たちの五感に頼らない情報を手にしていたらしい。彼らは「ドイーム・タイム」に移行することで、何マイルも離れていても動物の所在や人間の行く手を知ることができたし、必要な食料を手にするための最短の、最も経済的な地点を知ったり、水のありかを知ることができたというのだ。彼らは「ドリーム・タイム」によってある別 の存在である大地とつながっていた。彼らは大地と自己が統合された状態を維持していて、その直観的な機能を助長し、育成するモデルをその子孫に伝えた。そして人間はこの「ドリーム・タイム」と同調することによって、この世に形を与えている枠組みと完全な関係を結ぶことができると信じていた。アボリジニにとって身体とは、もはや私たちが身体という言葉で思い描いているような、確固とした、物質的な、形のあるものとして捉えているわけではない。それはいわば振動体としての身体であり、拡散し、流動的な消えては現われる身体なのだ。身体とは目に見えるものばかりではなく、目に見えないものを含んでいて、それらは肉体のかたまりからいともたやすく解け出したり気化したり、転移したりする。肉体という閉回路を脱してどんどん宇宙へ広がって行くことさえできるのだ。そしてそのことによって彼らは自分の中に様々な通 路を開き、目に見えないものからの未知の信号をいつもたぐり寄せている。現代人の多くはこの直感をほとんど見失っているが、テクノロジーが向かおうとしている方向は、まさに人類が忘れてきた感性と通 づるものがあるのかもしれない。

 物として見ることは日常生活の中で環境を秩序づけ整理するためには、たしかに好都合かもしれない。しかし、新しい時代の様に空間的にも時間的にもスケールがどんどん広がってゆくと、それはまったく役に立たなくなってしまう。巨大なもの、繊細なもの、速度や波動、光や歪みなどを捉えられなくなる。私たちのこれまでの身体では捉えることのできないものが、私たちの世界の根本をかたちづくっていこうとしているのだ。

 私たちは、自然界のパターンをその周囲から切り取られた単一の存在として見てしまいやすいが、それは一時的境界線を見ているに過ぎないのかもしれない。私たちは、これまでの知覚方式を捨てて、物よりもそれらの関連性や流動性を見る必要がある。物の相互関係を明らかにして、様々な現象を交えて考えてゆくことが求められている。そしてそれは新しいメディア・テクノロジーが次々と可能にしている新しい世界とも重なるものだろう。それらは固定的なものの体系を崩し、新しいヴィジョンの到来を告げようとしている。