現代美術にみる身体性としてのテクノロジー
A Study on Technology Including Pysical in Modern Art
Work ; “Inside”
第三章 交感する精神とテクノロジー
第三節 .癒しとしてのテクノロジー
これまでもみてきたように、私たちの身体観は科学技術の進歩とともに様々な変化を体験し、新しい知覚を手に入れようとしている。それはかつて人間が体験しなかったようなヴィジュアルイメージと、また視覚を超えた感覚を私たちに提示している。それまでの人間のスケールは、ミクロからマクロまでの視点の体験や、高速移動や遠隔操作によって広げられ、そのテクノロジーの中で人は何かを感じ、表現し、その知覚を自らのものにしてきた。そこでなされるコミュニケーションとは、テクノロジーを介したものであっても決して、無機的な人間味に欠けるものであるとは限らない。地球を飛び立ち、宇宙から青い地球を目にした宇宙飛行士の多くが、強い感動を受け神の存在を確信するというが、そういった感情はまさにテクノロジーが喚起させた ものであることを忘れてはならない。産業時代の無慈悲な物質主義が過ぎ去った後、意識や心や精神の問題に関心が向き始めている今日こそ、科学技術や芸術の在り方が問題となってくるのだろう。それは前にみた人間の無意識とも大きく関わってくるものであり、メディアを始めとするテクノロジーによって無意識の中に眠っていた領域を触発され、初めて人間の精神とテクノロジーの対話が始まるのである。
現代社会が生み落とした歪みの中で、人々は心の安らぎの場を求めているように見えるが、その役割をまさに芸術が果 たそうとしているという点も見逃すことができない。もともと人は自然とともに共存していて、安らぎとしての場は、その自然の中に見い出すことができた。しかし現代の都市においては、それが不可能となっているが、人はその変わりに自らの技術を生かし疑似体験によって、同じような精神状態に保つことを可能にした。
ジェームス・タレルが作品《アトラン》の中で作り出す空間と時間は、人を安らぎへと導く。彼は、光という人類が生み出した原始的なテクノロジーを用いて、鑑賞者を取り囲み鑑賞者のこころへと入りこんで行く。それは、自然の模倣にとどまるものではなく、作家の感性に基づかれた光のコントロール技術が可能にした空間である。光は古来より宗教的な場で精神的なものの象徴として扱われてきたが、タレルの作品から、類似の感情を喚起させられる人も多い。実際に、タレル自身が幼いころからクエーカー教の影響を受けていた。クエーカーは個々人が自分を導くための精神的鍛練を行い、また瞑想の中で光(神)を迎えることが宗教的体験となるものであった。音楽を通 じて思考や感情が伝わってくるように、光にも同じことがいえる。タレルに興味があるのは、物質としての光が及ぼす作用と、人間の感情の動きと光のかかわりだという。
また、ドラッグと同様に無意識を解放するものとして、テクノロジーが芸術の分野でその効果 を発揮している例をみることができる。80年代末になって現われた新しいメディア“シンクロ・エナジェイザー”は肉体のトレーニングと同じように、情緒安定やリラクゼーションのために、脳をトレーニングしようとするものである。これは、ゴーグルのようなアイマスクに付属する発行ダイオードと、ヘッドホンからのパルス音の統合・同調により視聴覚により脳へ働きかけ、人間の多彩 な意識状態を調整しようとするマシーンであり、これを使うと、目を閉じたまぶたの裏に、多様な色彩 を伴う万華鏡のような抽象パターンが見え、パルス音との相乗効果で一種の電子曼陀羅の世界があらわれる。この装置の開発者であるデニス・ゴルゲス博士は、バイオ・フィードバック理論や生体光学を専門とする脳科学者であり、80年初頭にこのマシーンの原型を完成している。
シンクロ・エナジェイザーという新しいメディア・テクノロジーの出現は私たちに感覚地図の書き換えを要求してくるものであるだろう。このマシーンには「安全合法のドラッグ」というコピーがつけられているというが、今やテクノロジーが60年代におけるドラッグと同じような役割を果 たして脳や神経官の枠組みを改変し、意識界の拡大を目指そうとしていえるだろう。
新しいメディアテクノロジーはもはや外部の情報伝達媒体というより、人間の有機的な身体知覚と直結し、私たちの脳を中心とする感覚把握の複雑なプロセスへと介入して行くものになっているようにみえる。
“精神機械”としての人間へ全く新しい方法で試みを続けながら、聖なるものへ至るインナーテクノロジーの方法を模索していたジョン・C・リリーというパイオニアがいる。脳内の意識活動の起源についての問題のためにアイソレーション・タンク(隔離タンク)を考案し、アメリカ国立保険研究所で、脳の基礎研究の輝かしい業績をあげた後、脳と心の関係を追求して実験を繰り返し、意識の探究者へと変容していったマインド・アーティストである。このタンクは、いわば、人間が一人すっぽりと入る入口しかない巨大な水槽である。そしてこの水槽にはいるために水中で呼吸できる特殊なマスクがあみだされた。合成ゴム製で吸入管が口と鼻の近くに入ってきて排気管はそのすぐそばに取り付けられた潜水具のようなマスクをすっぽり頭からかぶり、真っ暗なタンクの水の中へすべりこむ。タンク内に流れる水は、摂氏30度にコントロールされ、水中に浮遊する腕や足は沈みがちなので、肌に最小限の刺激しか与えない外科用のサポーターが当てられている。
こうしてタンクの中で身体の筋肉を弛緩させ、リラックスさせると、心に次々と溢れるようなイメージが浮かんでくるという。そして、全く唐突に“新しい領域”としか呼びようのないものが開け、今まで所有していた自分の身体から離れ、それまでの心を失い、光に満たされた果 てしない空間へ入りこんでしまうというものだ。
もともとリリーがこのタンクを考案するきっかけとなったのは、脳内の起源について、脳内の活動は自律的であり、外的な刺激を必要としなくても振動し続ける細胞であるというという証明のため、全ての身体的刺激から身体を隔離する一連の基準を考案するのである。そしてリリーはアイソレーション・タンクの完成により、その中で何時間も暗く静かな水に浸ることを繰り返し、脳は自律的な振動装置をあらかじめはらんでいることを証明する。
しかしこうした証明ばかりでなく、リリーはこの実験によって水と闇というタンク内の環境が、これまでにない深いリラクセーションと休息を与えてくれることを知った。実験に協力して、タンク体験をした人は、「まるで胎内にいるかのようだ」と感想をもらしたことがあったというが、タンクでの2時間が、ベットでの8時間の休息に相当していたためである。
リリーはタンクの体験を通して、従来の方法では推測できなかった人間の心の深みや脳の向こう側にあるものに対する新しい認識が生まれていったのである。水と闇のタンクを通 じてリリーは知らず知らずに自らの意識を拡大させ、体験不足でまだ十分に自分の個性内に統合されていない存在状態(胎児期のなごり)をまとめあげていった。
前に触れた、オーストラリアの原住民が体験するという「ドリームタイム」は、現代人の多くはこの直感をほとんど見失っているが、唯一胎児状態の時にこの「ドリーム・タイム」の状態が成立しているという。
ある意味でリリーがタンクへ入っていったのは、この胎児状態を再生させるためであり、水と闇を通 して「ドリーム・タイム」へ移行するためではないだろうか。
リリーはDNAにインプットされた記号そのものが、ある種の教示的な宇宙存在によって刻印されているとみなし、それを読解するプロセスの中で、タンクやドラッグが使われていた。タンクは、日常の境界を消し、私たちはもはや自分たちがどこにいるか分からなくなる。そして目に見えるものは存在せず、直観的で不可視なものが現われてくるのだ。水と闇は、有機体の記憶が持っている宇宙的特性をあらわにし、胎児とはまさにその水の闇に浮かぶ脳であり、精神である。