現代美術にみる身体性としてのテクノロジー


A Study on Technology Including Pysical in Modern Art
Work ; “Inside”

第三章  交感する精神とテクノロジー

第二節 無意識の再生

 これまでも述べてきたように、20世紀の芸術と技術の問題を考えるとき、イメージの概念が大きく変わり始めていることに注意を向ける必要がある。一言でいえば、それはかつてのイメージが人間の意識世界に限定されたものであったとすれば、新しく現われているイメージは、人間の無意識世界をも巻き込みむき出しにしてしまうような方向性を抱えているということだろう。そうした潜在意識の領域での問題を抜きにこれからのイメージの世界を語ることはできないだろう。

 20世紀における芸術と技術の新しい関係を考察する場合、両大戦間に、人間の目にはみえない非物質的な世界の流れや動きの探究法を、現代科学の検証にも耐えうるものにしようと模索し、“アントロポゾフィー(人智学)”と呼ばれる新しい学問を確立しようとしていたオーストリアのルドルフ・シュタイナーについて触れておく必要がある。生命の底流や五感を超えた力を、特権的な秘儀や教祖的な存在によって得られる霊力とみなすと、不健全な個人崇拝や神秘主義が生まれてしまうが、シュタイナーはこうしたプロセスを否定しあくまで人間が日常において健全な自己意識を保持しながら、そうした流れの実在に目覚めて行く方法を芸術を通 じて訴え続けた。そしてこの人智学は単なる精神主義のレベルにとどまることなく、建築、絵画、彫刻、音楽、ダンス、演劇などの分野に広がりを見せた。

 「私たちは人類の発展の歴史的必然性によって、意識下に存在しているものを魂が意識化することを迫られる時代に生きています。私たちが生きている今日という時代を理解するものは、無意識的なものを意識的な自由な把握へと変化させるのです。(中略)魂が意識下に体験する外的な諸力を見れば見るほど、彫塑的ファンタジーに関わるようになります。両者のあいだに、魂が自らの深みに有する、注目すべき無意識の領域が横たわっています。このように熱に貫かれ、霊に貫かれる状態の中に、無意識的に、画家に衝動を与える芸術的創造の源泉が存在します。画家が印象を色彩 の中にもたらすとき、その印象は意識下からとられてくるのです。」

 肉体は長い間、物体や道具としてみなされ、快楽や生死のための機械として利用されエロティックな経験を抽象化し、断片化する役割を担ってきた。シュタイナーはそうした身体認識に背を向け、人間はまず、生のあらゆる側面 に及ぼしている肉体の影響を認識しなければならないとする。肉体は心や周囲の環境と切り離されていて、脳の中の自己は肉体に対して主従関係のように命令を下すといった19世紀的な機械論にもとずく肉体観はそこでは捨て去られ、霊的なものへと至る別 の新しい機械としての肉体観が求められている。マシーン・エイジの舞台空間で繰り広げられた身体=機械運動と比較すると、そこには大きな違いが見られるだろう。そしてその非物質的な身体観こそ、来るべき時代の身体や生命モデルとダイレクトに重なって行くものなのだろう。

 こうしたシュタイナーの思想のの流れをひいて第二次大戦に注目を集めるのが、ヨーゼフ・ボイスである。彼は、芸術の創造力を文化ばかりではなく、政治、経済、法律まで拡大しようとしている。人々の心に豊かな精神を芽生えさせ、新しい世界を形作ってゆこうという彼の社会彫刻の理念は、シュタイナーと同じく既成の芸術のあり方、作り方、見方を問いただそうとするものといえるだろう。作る側の問題でしかなかったこれまでの芸術の中の変革を、見る側までもふくみこんだ形で行おうとし、芸術ばかりでなくそれを取り囲んでいる社会や環境、さらには生命体としての人間全体の見直しをはかる強いインパクトを与えようとしているのだ。

 ボイスは、彼が多用するフェルトやうさぎの皮、脂肪や金属などのオブジェを通 じて、人間の内部にある“流動的なもの(フルクサス)”へ、有機体のエネルギー運動へ、つながってゆこうとする思考を持ち続けた。それは人間の身体という制限を壊して、宇宙のシステムへ人間を再びたたみこもうとする試みであったといっていいだろう。そうしたものによってボイスは無意識的な衝動を意識界へと上昇させる技術を開発し、人間の無意識に潜む“生命”を取り出そうとしたのだ。

 ベルギーの哲学者であるポール・ビリリオは「眼のイメージ」ではなく、「精神のイメージ」に形が与えられ、イメージは眼球的視覚を再生するものから、無意識を浮き彫りにするものへと移行しつつあるという言葉で表現しているが、こうした流れはいうまでもなくメディアやテクノロジーの、新しい展開と平行して起こってきたものであることは間違いない。60年代にドラッグが無意識を解放したように、80年代のコンピュターが新しい形で無意識を解放しようとしているといっていいのかもしれない。TVゲームヤメディア・アートでもドラッグのような意識の変容を体験できるの時代にあるといえる。

 先端科学による技術的な潜在イメージが私たちの意識の内部に閉じ込められていた心的なイメージをえぐり出してしまうような状況の中に私たちは入りこみ始めた。メディア社会は、サブリミナルなテクニックを用いて、人間の潜在意識に刺激を与え続けている。人間の意識では知覚できない数十分の一秒の瞬間映像や、聞き取ることが不可能は音域で構成された音は、全て無意識へと流れこみ、知らず知らずのうちに人間はその影響を受けている。サブリミナル効果 とはそうした私たちの内的な欲望や感情がイメージや音によって新しい形で引き出されていることに他ならない。ニューメディアと呼ばれる、デジタル画像や電子光学によって次々と可能になる新しい合成視覚や環境知覚も、まさにそうした方向へ進もうとしているように思える。そしてそこではまさに外的イメージと心的イメージが融合し、現実界と下意識界が逆転するという現象が頻繁に起こってしまう。 

  私たちが何気なく意識と呼ぶものは、認識の非常に限定されたものでしかない。人間の感覚器から入ってくる膨大な量 の情報は、大脳辺縁系とか大脳皮質とか呼ばれる場所へと流れこむが、そこで限定された少量 の限定されたデータのみが意識へと編みこまれ、他の膨大なデータは無意識の貯蔵庫へ向かうといわれている。無意識は広大な記憶貯蔵システムを含み、そこでは意識のレベルでは扱い難いと思われる抑圧されたデータが集積されることになる。

 その貯蔵庫の中には、その人間が存在した初期の段階である胎児からの記憶が蓄積されている。それは意識の中の記憶には残っていないものであっても、多くの場合、子宮の中での出来事と誕生時の出来事は潜在意識の中に眠っていることは、出生前心理学の中でも明らかなことである。人の精神とは、個々人の中に眠っている膨大な情報によって形成され、その後の外部からの刺激に対しても、無意識での経験に基づき、その時の精神状態が決定されるといえる。無意識を触発し、精神に訴えかけるものとして、今、テクノロジーとアートが介在しようとしている。おそらくアートと密接に結び付き多彩 な広がり方をしている新しいテクノロジーの多くは、環境や空間と直結してそうした人間の意識の変容を促しているということもできるだろう。