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現代美術にみる身体性としてのテクノロジー


A Study on Technology Including Pysical in Modern Art
Work ; “Inside”

第二章 現代美術にみる身体性

第四節 インタラクティブアートの中の身体

 過去において、私たちが見るのは完成された芸術作品だった。それらの作品は黙って鑑賞するだけのものである。しかし、そういった芸術に飽き足らないアーティストたちは、さまざまなテクノロジーを使用しながら、インタラクティブ・アートというジャンルを確立してきた。インタラクティブアートとは、見るものと無関係に作品が存在する伝統的なアートのスタイルとは対照的に見るもの自身の存在あるいは行動によって作品が成立するもの、観客が作品に触り、あるいは操作しあるいはその中に入り込むことが作品を見るための必要条件であるような形態を指す。そこでは作品を「見る」という言葉とはほとんど「体験する」と同じ意味を持ち、従来の「観客」という言葉は、「参加者」に置きかわる。同様に作品は、観客の主体的な参加によって立ち現われるものとなる。

 そこでの作品を介在することによる関係は、新しい芸術の可能性を秘めている。フィリップ・ケオの次の言葉は、コンピュター・テクノロジーが切り開く、芸術での、もしくは人間の身体環境さえも含む、新しい世界を予感させるものである。 「インタラクティビティによって出現するのは、まったく新しい概念、すなわち共進化の概念である。作品は一種の世界、一種の生き物、ほとんど生きているといっていい、固有の自立性をもった準生物となる。たとえば人工生命は、作品が自律的な法則にのっとて成長することを可能ならしめている。そしてインタラクティビティは、行為者=観客に作品が観客の視線を変え、観客の視線が作品を変えることを可能ならしめている。」

 インタラクティブ・アートにおいて、私たちは日常では体験することのない身体感を経験する。テクノロジーが、直接私たちの身体感覚に影響を及ぼすものとして、ジェフリー・ショーの作品は見逃すことができない。ジェフリー・ショーにとってインタラクティヴィティという概念は、その初期の活動より欠かせない要素である。彼の作品では常に映像やイメージが観客に向かって爆発、拡張してくる。また、観客は映像や非物質の中へ参入していく。このために映像やモニターのフレームを自由に変化させなければならない。《Heavens Gate》などの最近の作品をはじめ、彼の全作品の鍵はここにある。彼が、エレクトロニクスに着手するきっかけにもなったティーベ・ファン・ティエンとの連作、《The Imaginary Museum Of Revolutions》や彼自身の《Revolutions》という作品にみてとれるように、そこではイメージと状況の構築を物理的かつ身体的に追体験させようとする思考が明らかである。「イマジナ」でのサイバースペース上の実験や《Heavens Gate》におけるマニエリズムの中にも、このモチーフは確実に引き継がれている。

 インターフェイスという点で最も興味深いのはクリスタ・ソムラーとロラン・ミショノーによる作品だろう。現実の植物をインターフェイスとして仮想空間に同種の植物を育てる彼らの作品は、コンセプトと方法論が見事に一致しているだけでなく、コンピューターの存在を感じさせないという意味でもインタラクティヴィティの目指すところを先取りしている。《Interactiv Plant Gkrowing》は、コンピュターによる3D空間の中の仮想植物の成長と、生身の観客が触れたり近づいたりすることのできる現実の生きた植物とを連結させたものである。現実空間の植物に触れたり手を近づけたりすることによって、植物と成長プログラムを繋ぐインターフェイスに送ることによって、人々はコンピュターおよびビデオスクリーン上のヴァーチャルな成長過程に直接的な影響を与えることになる。観客の手の位 置の変化が影響を与えて、羊菌や苔、樹木、蔦などの仮想植物を出現させる。最終的には、さまざまな変異は、接近距離を見い出す鑑賞者の感性次第なのである。仮想植物を調整し組み立てていくさまざまなレベルを発見するまでにある程度の時間がかかるため観客は現実の植物に対するより鋭い感受性と意識を開発することになるだろう。

 今日テクノロジーそのものが生物工学や生体電子工学のように生物学への傾斜を強めつつあるのに従って、芸術もまた発生や共進化やオートポイエーシスの問題を自らの内に抱え込むようになっている。その好例として、クリスタ・ソムラーとトム・レイの仕事があるだろう。彼らは人工生命を芸術につながるものとして扱っている。

 三上晴子やケネス・リナルド、チコ・マクマトリーらによるサイバネティクスでロボティックな作品は、物質的な実態という意味で通 信による空間を隔てた体験の共有や仮想空間でのヴァーチャルな体験とは対極にある。これらは、仮想生命体のアルゴリズムを内蔵した現実の物体と人間とのきわめて生物的なインタラクティヴィティを提示している。

 ヴァーチャル・リアリティのひとつの要素は観客=参加者の身体性が仮想空間の中で発現されることにあるが、ノウボティック・リサーチによる音空間では、空間に充満した音のトリガーを身体の動きが誘発する。

 ウルリーケ・ガブリエルは、呼吸や脳波のように人間が自由に制御できない身体的要素を入力として選ぶことでインタラクティヴィティそのものを問直そうとする。インスタレーション全体の美しさとは裏腹に、ウルリーケ・ガブリエルの作品の内部空間は心地よさを拒否する。布のスクリーンで囲まれた立方体の空間に入ると、拡大された自分の呼吸音とともにパターンが変化し、スクリーン自体も揺れ動《Breath》。瞑想状態に入って脳波がリラックスすれば天井のライトが明るくなり、太陽電池を張り付けた虫のようなロボットが活発に動き出すが、少しでもそれに注意が向くと全てが暗くなって停止する逆説的な装置《Terrain》。峡谷に落ち込んだように視野を狭めるゴーグルの中の空虚な視野を見つめていると岩肌が突然盛り上がり、テクスチュアが複雑に分岐する《Perceeptual Arena》。

 ガブリエルの作品では常に内部と外部が峻別されている。内部世界の体験は被験者の生理・知覚がシステムに入力された結果 であり、被験者はいわば自分の体内空間に向きあうという苦行を要求される。一方、観客はそれをひとつの作品として、鑑賞することを許される。

 自分の作り出す世界を明確に設計できるガブリエルが一貫して提示するのが、自分のものでありながら完全なコントロールが不可能な世界、あるいは自分の肉体に閉じ込められたが故に明確にみることができない世界である逆説は興味深い。人間のパーセプションと物理的実体としての肉体をシニカルな目で見つめるガブリエルは、インタラクティヴィティの本質は容易さや、快適さではないと主張する。

 インタラクティヴィティそのものがコンピュターの高速化やセンサーの改良などで普遍化する中で、インタラクティヴでありさえすればいいという時代ではもはやなくなっている。むしろ、アーティストが必然性を持って構築するストーリーと比べて、ハイパーメディア化された作品の弱さが露呈する場合も少なくはない。インタラクティブな操作とそこに現われる結果 の面白さだけで作品と呼べるのかという疑問も、良質のゲームや、商業制作との比較において今後、増大するだろう。インタラクティヴィティをどのように実現するかという方法論や技術以前に、なぜインタラクティブなのかという問が、アーティストにとって必要となってくるだろう。