現代美術にみる身体性としてのテクノロジー


A Study on Technology Including Pysical in Modern Art
Work ; “Inside”

第二章 現代美術にみる身体性

第三節  メディアの身体化

 マルチメディアをはじめとする新しい電子情報技術は、経済・社会を急速に変容させつつあると同時に、芸術・文化にも大きな影響を与えつつある。もともと技術と芸術は同じ一つの術だったわけだが、近代においてそれがハードな技術の体系と主観的な芸術の表現とに別 れていたところを、今新しいメディアのテクノロジーがそれをもう一度別な形で結び付けようとしているといえる。それと同時に、メディアとかかわる私たちの身体は、新たな感覚を手にいれた。テクノロジーが私たち人間の感覚器に働きかけてくるものは、それまで想像もし得なかった感覚であった。それは、写 真の発明による静止画の認識から始まり、マクロ、ミクロの視点、スローモーション映像、最近ではコンピューター・グラフィックスによる合成映像など、まさにメディア・テクノロジーが可能にした新しい視覚であった。そして、さらにはメディアは視覚だけでなく、私たちの体を取り囲み、全身としての体験を通 して私たちに訴えかけてくる。

 超大型コンピュター・システムがつくりだす全天周立体映像装置〈コスモドーム〉は観客席に座ると自分の身体を360度のスクリーンが包みこみ、ホログラフィの様な立体的な質感や形態を持った様々な事物の運動を見ることができる。宇宙の隕石や生命の遺伝子が非常にクリアな立体イメージとなって見るものに飛び込んでくるのだが、ここでは見るものの身体は存在しないかのように感じられてしまう。つまり隕石や遺伝子が何のショックもなく見るものの身体の中を恐ろしい速度で通 りぬけてしまうのである。それはまるで身体器官が全て透明になって宙に浮かんでいるかのような感覚である。自己の身体を定位 させる意識はなく、自己は空間全てに拡大されてしまったようになるという。

 またこの装置は、通常の映画やTVといった映像とは違って、前、後、右、左とどこを向いても映像が飛び出してくるため、私たちは映像を見るというより映像の中に織り込まれ、メディアそのものの中へ身体が包みこまれてしまうようになる。人間をその装置の外に置くのではなく、その装置の内部へ組み入れてしまうのだ。

 つまりメディアは単に音や映像を記録し、伝達するのではなく、世界や時空そのものをパッケージ化し、人をその内部へ取り込む。つまり、こうした装置によって人は新しいコミュニケーションの手段を得たというより、その装置でコミュニケーションの構造や内容を大きく変え、人間の意識や身体空間の様態まで大きく変容させているのである。

 コスモドームでみたような映像や音にすっぽり包みこまれているという感覚は、ジャンボトロンなどのメディア装置でも同様に起こっている。高層ビルが重なったかのような巨大なTV画面 を持つこのジャンボトロンでは圧倒的な振動の中でメディアを現実体験として味わうことができる。そこではメディアは私たちの身体をおおいこみ、身体というものが肉塊ではなく、気体や電磁波の様な流動的な場の集積体のように感じられてしまう。

 ローリー・アンダーソンやステラークなどのように、上のような状況を積極的に受け止め、額や頭や手といった身体の各部にセンサーをつけ、そこに触ると大きな反響音を起こす装置で身体をドラムセットにしてしまったり、人間の声を別 の声に変えてしまうボコーダーという変声器を喉もとにつけて人格や感情を転移させる試みを行ったり、モニターやスピーカーで自分の映像や音像を分断・合成したり、身体の運動を光や音に同調させて発散させたりと、身体にどのようにメディア・テクノロジーを接合してゆくかという実験を繰り返すアーティストも数多く出てきている。

 ポール・サーマンの《Telematic》 三部作において、すでに20年前にビデオ・アートと融合していた身体芸術の領域は、最後の必然的な一歩を押し進めることになる。つまり、、身体芸術がザイバースペースに入って行くのである。この遭遇は新たな芸術分野を生み出す。それはネットの時代である90年代にふさわしいものである。

 ポール・サーマンは、ネットワークによって創られた、現実でも完全なヴァーチャルな空間でもない不思議な空間の中で、遠隔地にいる人物とコミュニケーションを行う作品を制作した。そのひとつ《Telematic Dreaming》の展示、パフォーマンスは、麻布のNTT/ICCギャラリーと青山のスパイラルをISDN回線で結んで行われた。NTT/ICCギャラリーのベッドの上に設置されたビデオカメラの映像は、ベッドの上に投影されたスパイラルの映像および背景映像とベッドの上の人物を同一画面 内にとらえる。ここにおいて、スパイラルの人物とNTT/ICCギャラリーの人物が同一のベッドの上にいるかのように合成される。合成された映像はそれぞれの会場のモニターに写 し出される。彼の作品は、自分の身体なのにもかかわらず自分の身体でなくなって行くような、あるいはここでもあそこでもない全く別 の次元に自分が引き込まれて行く様な感覚を体験する。それは、作家性を排除したものであり、芸術作品を見て、鑑賞者が作品に込められた意味を読み取るという一方通 行の作業ではなく、自分なりの意味付けを行う。全ての人がアーティストになりうる。

 そして、これからの時代はオートマティックとテレプレゼンスが生活の中心を形成する生命線になって行くという予感を感じさせるものでもある。そこでは、人間の身体感覚が変わっていく、あるいは自分の身体は皮膚の中に閉じ込められていた肉の塊だと認識していたわけだが、その界面 をどんどんずらして、操作、コントロール可能なものになってゆくという新しい身体性が見えてくる。

 彫刻から出発したCGアーティスト、ゲイリー・ヒルは、電子メディアを扱っていながらも、もう一度物事を触覚的に感じたいという欲望にかられたという。その感覚をはかないものと対立させ、そこから生じるものを見て見たいと考え、話し言葉と書き言葉との境界とか、映像と音声と物質と電子的シュミレーションとの間にあるものに、関心を持ちはじめた。そこで、彼はモニターを横に押やり、音声や身体、さらにはテクストを、以前よりも多く扱うようになったのだ。 「ドクメンタ9」におけるインスタレーションは、暗闇の中に浮かんでは消えてゆくさまざまな人々の映像が常に何かを語りかけようとしているという趣向で、非常に強いインパクトを与える作品であった。わが国でも、その作品は、ワタリウム美術館での個展や、名古屋「アーテック」への出展などで、その作品は度々紹介されている。

 映像の物質性を即時に扱うことができるという事実こそが、ヴィデオをそれ自体メディアにしている。それは身体を拡張するものなので、本当は最初の非=メディアであるといえる。例えばヒルは、《CUX》で自分のからだにカメラを装着し、眼を通 してものを見るということをしないで、記録させるという発想で作品を制作した。視覚機械をつけているという感覚に対して身体はどう反応するだろうかという問に対して、実際にやってみると、何か別 のことが起こるという。それは場所に備え付けられた身体のようなものであるのだろう。

 CGアーティスト藤幡正樹は、身体の中に眠っている記憶がものすごくリアルな形で蘇ってくるようなもの、それが美術とか芸術だと考えていると語る。イメージ、モノ、記号、言語というものがベースにあって、その上で私たちの記憶が上手に再現されることができない記憶を揺さぶることが、新しいメディアの新しい使い方によって出来るのではないだろうか。私たちが根本的に持っていたリアリティのあり方というものを、どういうふうにゆさぶるか、そういうメディア、そういう道具、そういう素材としてコンピュターを使うということが今一番大事なことであるのだろう。美術館以外の場所で、世界というものをもういっぺん見直すきっかけを与える場所というのが、コンピュターとの関係の中で生まれてきつつあるといえる。

                                 こうしたメディア・テクノロジーは人間の意識を複合的なシステムによりコントロールし、作り直しているのではないだろうか。私たち自身の時空意識や現実感がメディア・テクノロジーによって次々と生み出され、人間の内部の閉じられた精神や神経のメカニズムが外部で操作可能なものとなってゆく。「メディアの身体化」によるそれまでの身体概念の崩壊、個性や自我の溶解ということが、新しいテクノロジーとアーティストの対応の中には明瞭にしるされてるといっていいだろう。

 過去において、私たちが見るのは完成された芸術作品だった。それらの作品は黙って鑑賞するだけのものである。しかし、そういった芸術に飽き足らないアーティストたちは、さまざまなテクノロジーを使用しながら、インタラクティブ・アートというジャンルを確立してきた。インタラクティブアートとは、見るものと無関係に作品が存在する伝統的なアートのスタイルとは対照的に見るもの自身の存在あるいは行動によって作品が成立するもの、観客が作品に触り、あるいは操作しあるいはその中に入り込むことが作品を見るための必要条件であるような形態を指す。そこでは作品を「見る」という言葉とはほとんど「体験する」と同じ意味を持ち、従来の「観客」という言葉は、「参加者」に置きかわる。同様に作品は、観客の主体的な参加によって立ち現われるものとなる。

 そこでの作品を介在することによる関係は、新しい芸術の可能性を秘めている。フィリップ・ケオの次の言葉は、コンピュター・テクノロジーが切り開く、芸術での、もしくは人間の身体環境さえも含む、新しい世界を予感させるものである。

「インタラクティビティによって出現するのは、まったく新しい概念、すなわち共進化の概念である。作品は一種の世界、一種の生き物、ほとんど生きているといっていい、固有の自立性をもった準生物となる。たとえば人工生命は、作品が自律的な法則にのっとて成長することを可能ならしめている。そしてインタラクティビティは、行為者=観客に作品が観客の視線を変え、観客の視線が作品を変えることを可能ならしめている。」

 インタラクティブ・アートにおいて、私たちは日常では体験することのない身体感を経験する。テクノロジーが、直接私たちの身体感覚に影響を及ぼすものとして、ジェフリー・ショーの作品は見逃すことができない。ジェフリー・ショーにとってインタラクティヴィティという概念は、その初期の活動より欠かせない要素である。彼の作品では常に映像やイメージが観客に向かって爆発、拡張してくる。また、観客は映像や非物質の中へ参入していく。このために映像やモニターのフレームを自由に変化させなければならない。《Heavens Gate》などの最近の作品をはじめ、彼の全作品の鍵はここにある。彼が、エレクトロニクスに着手するきっかけにもなったティーベ・ファン・ティエンとの連作、《The Imaginary Museum Of Revolutions》や彼自身の《Revolutions》という作品にみてとれるように、そこではイメージと状況の構築を物理的かつ身体的に追体験させようとする思考が明らかである。「イマジナ」でのサイバースペース上の実験や《Heavens Gate》におけるマニエリズムの中にも、このモチーフは確実に引き継がれている。

 インターフェイスという点で最も興味深いのはクリスタ・ソムラーとロラン・ミショノーによる作品だろう。現実の植物をインターフェイスとして仮想空間に同種の植物を育てる彼らの作品は、コンセプトと方法論が見事に一致しているだけでなく、コンピューターの存在を感じさせないという意味でもインタラクティヴィティの目指すところを先取りしている。《Interactiv Plant Gkrowing》は、コンピュターによる3D空間の中の仮想植物の成長と、生身の観客が触れたり近づいたりすることのできる現実の生きた植物とを連結させたものである。現実空間の植物に触れたり手を近づけたりすることによって、植物と成長プログラムを繋ぐインターフェイスに送ることによって、人々はコンピュターおよびビデオスクリーン上のヴァーチャルな成長過程に直接的な影響を与えることになる。観客の手の位 置の変化が影響を与えて、羊菌や苔、樹木、蔦などの仮想植物を出現させる。最終的には、さまざまな変異は、接近距離を見い出す鑑賞者の感性次第なのである。仮想植物を調整し組み立てていくさまざまなレベルを発見するまでにある程度の時間がかかるため観客は現実の植物に対するより鋭い感受性と意識を開発することになるだろう。

 今日テクノロジーそのものが生物工学や生体電子工学のように生物学への傾斜を強めつつあるのに従って、芸術もまた発生や共進化やオートポイエーシスの問題を自らの内に抱え込むようになっている。その好例として、クリスタ・ソムラーとトム・レイの仕事があるだろう。彼らは人工生命を芸術につながるものとして扱っている。

 三上晴子やケネス・リナルド、チコ・マクマトリーらによるサイバネティクスでロボティックな作品は、物質的な実態という意味で通 信による空間を隔てた体験の共有や仮想空間でのヴァーチャルな体験とは対極にある。これらは、仮想生命体のアルゴリズムを内蔵した現実の物体と人間とのきわめて生物的なインタラクティヴィティを提示している。

 ヴァーチャル・リアリティのひとつの要素は観客=参加者の身体性が仮想空間の中で発現されることにあるが、ノウボティック・リサーチによる音空間では、空間に充満した音のトリガーを身体の動きが誘発する。

 ウルリーケ・ガブリエルは、呼吸や脳波のように人間が自由に制御できない身体的要素を入力として選ぶことでインタラクティヴィティそのものを問直そうとする。インスタレーション全体の美しさとは裏腹に、ウルリーケ・ガブリエルの作品の内部空間は心地よさを拒否する。布のスクリーンで囲まれた立方体の空間に入ると、拡大された自分の呼吸音とともにパターンが変化し、スクリーン自体も揺れ動く《Breath》。瞑想状態に入って脳波がリラックスすれば天井のライトが明るくなり、太陽電池を張り付けた虫のようなロボットが活発に動き出すが、少しでもそれに注意が向くと全てが暗くなって停止する逆説的な装置《Terrain》。峡谷に落ち込んだように視野を狭めるゴーグルの中の空虚な視野を見つめていると岩肌が突然盛り上がり、テクスチュアが複雑に分岐する《Perceeptual Arena》。

 ガブリエルの作品では常に内部と外部が峻別されている。内部世界の体験は被験者の生理・知覚がシステムに入力された結果 であり、被験者はいわば自分の体内空間に向きあうという苦行を要求される。一方、観客はそれをひとつの作品として、鑑賞することを許される。

 自分の作り出す世界を明確に設計できるガブリエルが一貫して提示するのが、自分のものでありながら完全なコントロールが不可能な世界、あるいは自分の肉体に閉じ込められたが故に明確にみることができない世界である逆説は興味深い。人間のパーセプションと物理的実体としての肉体をシニカルな目で見つめるガブリエルは、インタラクティヴィティの本質は容易さや、快適さではないと主張する。