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現代美術にみる身体性としてのテクノロジー


A Study on Technology Including Pysical in Modern Art
Work ; “Inside”

第二章 現代美術にみる身体性

第二節 パフォーマンスの考察

 芸術の歴史は、身体と空間との複雑な相互干渉を体現している。つまり、一方に鑑賞者の現実の身体およびそれが住まってる現実の空間という実在の領域がある。もう一方に、身体および空間が表象される仮想の領域がある。この両者が、複雑なやり取りを繰り広げてきたわけである。現代の空間における身体は、もはや古典的モデルでは捉えられない、めまいのするような位 置におかれている。

 インタラクティビティの発現は、アートにおけるパラダイム変換なしにはありえなかった。観客を巻き込んではじめて成立するような形態は、アートではなくエンターテイメントであるという伝統的な観念は、今世紀はじめての未来派とダダイスト達の活動、そして50年代から60年代に掛けてのハプニングとパーフォーマンスによって崩された。彼らは、アートと生活との間にそれまで存在していた壁を否定し、観客もまた作品の一部であるという新しい定義をアートにもたらしたといえるだろう。

 パフォーマンスは、多くの芸術家たちにとって、作品制作の基礎となるさまざまな形式あるいは概念上の発想を活性化する方法として、パフォーマンスが利用された。生きた身振りは、いつも、既成の芸術の固定化に対抗するための武器として使われてきた。さらに、各分野で伝統との関係を絶つことを目指した芸術家たち、つまり前衛たちの歴史において20世紀のパフォーマンスは、そうした活動の最前線に位 置してきた。未来主義者、構成主義者、ダダイスト、あるいは超現実主義者たち運動のルーツはパフォーマンスであり、またパフォーマンスによって問題を解決しようと試みてきた。

 パフォーマンスによる宣言とは、未来派から今日に至るまで、日常生活において芸術体験を評価する別 の手段を見い出そうとして、意義申し立てをしてきた人たちの表現であった。パフォーマンスは、大衆に直接訴えかけるひとつの方法であると同時に、観客に芸術の観念およびそれと文化の関係を再検討させるべく、衝撃を与える方法でもあった。

 ハプニングという名称は、アラン・カプローの個展「6つの部分からなる18のハプニング」ではじめて用いられた。これは画廊をビニール・カーテンで6つの部屋に区切り、各部屋には、それぞれカプローのタブローや廃品オブジェが並べられて、ライトが点滅するその中を、人々は歩き周り、体験し合うといったものであった。カプローが、こうした催しを計画するに至ったそもそもの発端は、彼のポロックのアクション・ペインティングへの関心に根ざしてしる。カプローの変遷は、アクション・ペインティングによってクローズアップされた描くという行為自体が膨れ上ってゆき、それが人間とさまざまな物質の相互作用に焦点をすえたハプニングという形式にまで達したことを示している。

 このようなハプニングという考えは、たとえ観衆の参加ということを想定しているとしても、あくまで芸術家の肉体と行為が中心となっていることに注目する必要がある。観客の参加は、あくまで見る客としてであって、そこから、ハプニングを演劇の一種とみる見方の生まれる余地がある。

 初期ハプニングにみられるように、もともとはアクションペインティングの発展の過程として出現したものだったかもしれない。しかしハプニングは、無意味に見えながら実は消し去ることのできない芸術の行為の重みというものを、戦後の情報社会とマス・プロの物質の時代の中に問題提起したものであったと思われる。そしてまたそれは環境と人間の一体化ということであり、芸術に環境をを何とかまるごと反映しようという現われでもあった。

 しかし環境とは目で見える現実世界だけではない。マクルーハン的にいえば、現実の環境はその未知の空間の全身的な意識化を促しているのである。視覚・聴覚・触覚などを総動員して、環境と行為のひとつのつながりの領域に踏みいらなければならない。それは、初期ハプニングにみられた人生の再構成の中での実感主義的な体験では、もはや限界にきていた。そして、その当時、メディアの発達による新しいアートが登場し、映像や電子音楽やテクノロジーが加わることにより、新しい流れが生まれることになる。それはハプニングの人生主義を乗り越えて、新しい知覚とそこから引き出される新しい認識の未踏の領域への冒険となる。

 一方、EATなどの動きにおいて注目すべきは、ここにおいて身体と技術の新しい関係、つまりパフォーマンスがテクノロジーと一体化され新局面 を向かえる素地が用意されることになったということである。彼らが1969年に行った「ナイト・イブニングス」は、このデモンストレーションで特筆すべきなのは、赤外線TV、スクリーン、リモート・コントロール・システム、コンピュター・グラフィック、シンセサイザーなどが駆使されて、インターメディアを指向するさまざまな実験が行われたということだろう。中でもジョン・ケージの電子音楽とマース・カニンガム舞踊団によるダンス・パフォーマンスは、パフォーマンスと最先端テクノロジーによる演技者と観客のインタラクティブな関係を明確にした。

 1960年代および70年代に行われた、メディア・ミックスならびにマルチメディアの革命的な探究によって明らかになったのは、身体に焦点を当てるということだった。パフォーマンスを行う芸術家の身体と、それに参加する観衆の身体とが、経験とその媒介との弁証法において次第に相互浸透を始め、新たな身体概念を形作っていったからである。今日の主役となっている仮想現実にプラグ・インされた身体とは、こうした結合の拡張形態に他ならない。

 一方に私たちの存在そのものを構成する感覚的身体がある。しかしそれは同時に、私たちに非=存在としての死を宣告する有限な身体でもある。この耐え難い矛盾は、身体の肯定と否定を同時に引き起こすものであり、歴史的・文化的にいって、芸術における思弁やイコノグラフィーのこのうえない関心の的となってきた。近年、ヴァーチャル化された身体は諸手を上げて礼賛されているがこれが死を運命づけられた役立たずの身体の否定という伝統をなぞっていることは明らかであるだろう。それは同時に、パフォーマンスでインタラクティブな身体感覚の肯定を、バランスを保つかのようにともなっているわけである。

 私たちは懸命に自らを脱身体化し仮想と現実の狭間に継ぎ目なしに広がる領域で目も眩まんばかりの綱渡りを続けている。そして今日、身体はサイバー・スペースもしくはネット空間において再び統合され、新たに超個人的な身体が現われてくるようにも思われる。