現代美術にみる身体性としてのテクノロジー


A Study on Technology Including Pysical in Modern Art
Work ; “Inside”

第二章 現代美術にみる身体性

第一節 身体を扱う現代美術

 過去、現在を問わず芸術の流れにおいて、人間の身体は永遠のテーマとなってきた。しかし、伝統美術は人間の肉体を美の規範としたのに対して、現代美術においては人間の身体の背後にある関係性、あるいは身体に象徴される事項を題材として、さまざまな尺度から解釈し表現されている。それだけ身体というテーマは、私たちにとって身近であると同時に根深く、私たち自身である人間を探究する上での可能性を内蔵したものであることが分かる。そこがまさに芸術にっとての格好の材料として、多くの作家たちを魅了してきたといえる。

 伝統的な美術表現においては、再現性の高さで身体が表現されてきたが、そういった観点とはまた違った意味でのリアルな身体が、現代においてもみることができる。ジョージ・シーガルやアントニー・ゴームリーの彫刻の魅力は、人体という長く彫刻の規範となってきた対象を選びとって、しかもその人体を全く新しい方法で捉えているところにあるのではないかと思われる。等身大の石膏像で、現代アメリカ社会のワン・シーンを切り取るジョージ・シーガルは、従来タブー視されていた人体からの直接型取りの方法によって伝統彫刻の概念を破り、日常性という舞台装置の上に現代社会を写 し出している。そこでは、リアリズムの域を超えた現実の空間、環境を提示し、見る者の感情移入がそこに働くだろう。あるテーマが浮かぶと、シーガルは慎重にモデルになってもらう人を選択するという。なぜならば、人の心の内面 というものが、必ず石膏の中に現われるとシーガルは捉えているからだ。そのため、彼はモデルになってくれる人の感受性と反応に全てをかけていると語る。

 また、アントニー・ゴームリーは、シーガルと同じく型取りした人体像を用いているが、ゴームリーの制作の基本になっているのは、自分の体を使って人体像を表現したことである。この自分の体を使ったということが、ゴームリーの彫刻における新しい方法となり、またさまざまな発想の基盤となっている。

 ゴームリーの人間についての考え方は、物質社会の中で、さまざまな問題の中にある人間の精神を、いかにしたら救済できるかという思想と結び付いていて、また、身体に宿っている人間の潜在的な意識の世界を、自分の体を使って表現している。

 ゴームリーは、いつでも自分自身の肉体をもとに型取りを行っていて、作品はゴームリーの分身となっているといえる。それは、みずからの外観を描写 する自画像ではなく、自分の肉体がすっぽりと収まってしまう容器として捉えている。その容器は肉体だけでなく、意識までも収納しているものであり、その内部(肉体と意識)におこっていることと、外部(周囲の空間)との微妙な関係へとゴームリーの関心は集中している。ゴームリーの作品は、人体の美の規範としてきた西洋の彫刻の伝統への意義申し立てであり、むしろ、世界と人間の関係を改めて問いかける存在論的な試みであるといえる。20世紀の彫刻史の中で後退した人物像を手がかりに、ゴームリーは全く違う次元で人体、あるいは人体によって喚起されるイメージを、今日的な彫刻のテーマに取り上げたといえるだろう。

 また、身体という問題に対して、女性ならではの問いかけを作品を通じて行っている作家も、多く見ることができる。女性は、自らの肉体を通 した経験や、あるいは生理的なものによるのか、身体に対して敏感な感性を持ち合わせているように思える。アメリカの女流作家キキ・スミスは、実生活にどんどん近づいているアートの問題に対して重要な探究をしている作家の一人である。彼女の身体への興味は根深く、85年に救急車医療院の訓練を受けたほどである。皮膚、内蔵、胎児、体液などの解剖学のイメージが使われ、最初は死、出産、妊娠など女性らしい立場から身体への考証がなされた。次には、レイプ、虐待、食欲異常症など社会的問題への関心がみられた。彼女はアートを通 して、自覚や自己権能を高め、みる人を自由にし、癒そうと試みているようである。

 レベッカ・ホーンの作品も、人間の身体に関したものであるが、そのテーマは身体そのものではなく、その中で行われる変化のサイクルであるといえる。物質はエネルギーに変わり、エネルギーはまた物質に変わるというサイクルが、彼女の表現の根底にある。ホーンによって、私たちは物質が不変のものではないことに気付かされる。

 ホーンの作品は多岐にわたり従来のアートの概念に当てはめることは不可能だが、しいて分けるとボディ・エクステンション(身体に装着した作品)を使ったパフォーマンス、フィルムおよびビデオ、彫刻とその場にあわせてつくられたインスタレーションの3つである。

 初期のパフォーマンス作品「溢れる血液の機械」は、エネルギーの動きを水銀に象徴させている。身体の外に取り付けられた数本のプラスチック・パイプの中を赤い血液がポンプで流れる装置である。このようなエネルギーの動きは異性間のみえないエネルギーの交換、ひきあう力、反発する力にもなりえる。一連のパフォーマンスや、建築と身体の関係を思わせるインスタレーションを通 して、モナ・ハトゥームは客体としての身体    一定の質量を空間を占めるという意味でのまさに「ボディ」を、一貫して表現してきた。ハトゥームの作品は、触覚、視覚、聴覚、生体のリズムに訴えかける。観客は作品の一部となって作品とともに呼吸することになる。《見知らぬ 身体》は、内視鏡を口と女性の性器の両方から入れて内部をとった精密な映像と、それを身体を思わせる円筒形の構造物の中に、観客が見下ろすかたちで設置することで、観客を自らの内部の傍観者とさせるという、作家の方法論が明確に示された作品である。肌の表面 をなぞる官能的な画面から、生々しい臓器の内部の映像への展開、ここでも両義性のショックが内包されている。主体から客体への転換、見る者から包囲され、見られるものへの転換、そして圧倒的な他者性の存在を見せられることになる。

 医療技術の進歩は、人間の身体の内部に対する表現の可能性を広げてきたといえる。目に見える外見としての身体とはまた違ったアプローチが、そこには存在する。それらが象徴するものは、生や死をはじめとする生命の存在意義までをも含むことさえする。現代美術における作家の身体への興味は、精神をも含む人間の内部により深く侵入してゆくことといえるのかもしれない。