現代美術にみる身体性としてのテクノロジー
A Study on Technology Including Pysical in Modern ArtWork ; “Inside”
第一章 テクノロジーと20世紀芸術
第一節 マシン・エイジの試み
テクノロジーと芸術の関係について考えるときに、当然、科学技術を生み出す社会背景が問題になってくる。20世紀に入り、科学技術の進歩は目覚ましい速度で発展し、人間を取り囲む環境が変化するばかりでなく、人間の身体機能までをも拡張されてきたといえる。その変化とともに、現代のテクノロジー・アートが成立しているのであるが、現代を明らかにするためにも、歴史的な考察が必要になるだろう。テクノロジーを芸術に積極的に取り入れようとする試みは、20世紀初頭にみることができるが、ここではこの論文のテーマとなっているの身体という観点をふまえながらから、それらを検証してみたい。
第一次世界大戦が終了した1918年から第二次世界大戦が勃発する1941年の二つの大戦の間の20年間は、テクノロジーが、社会の基盤を形成したり、機械技術というユートピア信仰に支えられて、人々の意識に多大な影響を与えた時代である。これをマシン・エイジと呼び、20世紀初頭の様々な芸術運動が衝突しあい淘汰されながら、新時代の機械技術に対する芸術の可能性を模索した時代でもあった。1920年代は工業生産が飛躍的に伸び、人々の生活がもはや機械のもたらす恩恵から逃げられないほど豊かになっていた。そして、芸術も文化も機械中心のテクノロジーを軸に展開していった時代であったといえる。
そうした中、芸術の機械・技術に対する見解は、絶望的な悲観論から盲目的な心酔に至るまで多様な広がりを見せているが、身体と生命という観点から見ると、一つの共通 した認識を認めることができる。それは人間の身体や生命を機械そのものへ同化させて行こうとする方向性である。特にこうした方向は、これからあげてゆく芸術における前衛運動の中で大胆に展開されていった。
テクノロジーを芸術に積極的に取り入れ、新しい表現を追求していった動きは、まず未来派の中に見ることができるだろう。未来派はいうまでもなく、 20世紀において初めて機械を全面的に受け入れた美術集団である。伝統的芸術の価値に疑問を抱き、新時代に対応した大胆で動的な芸術の可能性を信じ、様式という伝統的で長時間をかけ探究された表現形式に挑戦した運動であった。彼らはテクノロジーが生み出すエネルギーのダイナミズムこそがこの世で最も美しく芸術の対象であると賛美し、テクノロジーを最も強力な手段として使おうとした。彼らは金属の光沢や鮮明な色彩 やマシーンのノイズやパワーが与える恍惚感を賞賛し、機械化された現代を受け入れ、未来への道を開くことを示そうとしたのである。
未来派のメンバー達の機械に対する賞賛は、身体表現の場においても明確な形で現われていた。それは、身体までをも機械的なものとして捉え、まるで人間が機械の一部に組み込まれたかのような動きのものであった。この身体を機械に同化するという表現は、劇場空間の中で目だって行われた。
このような、人間の身体の動きを機械化し、人間に機械の動きを模倣させたりするパフォーマンスとして注目すべきものをあげると、未来派のメンバーであるジャコモ・バッラに見ることができる。バッラは、1914年に《マキーナ・ティポグラフィカ》という、6人の演者が横一列にならんで、ピストン運動をまねたり、別 の6人が両手を回転機のように振り回したりして印刷機械を演ずるパフォーマンスを行った。そしてこのとき、人間は機械のようなのノイズを出すように仕向けられ、人間の生々しい身振りや表情をできるだけ排除するダンス・パフォーマンスであった。
彼らは、特にパフォーマンスの様な特殊な表現領域を、彫刻や絵画といった単一の表現形態とは異なる”コンプレッソ・プラスティコ(複合芸術)”と呼んだが、なかでもフォルチュアート・デッペロは、一種の遊戯機械を考案し“宇宙による未来主義再構成宣言”のモデルとした。つまりデッペロはこのコンプレッソ・プラスティコを、機械的形態をもった人工生命体とみなし、人間的な形態ではないが、それゆえにこそ人間的形態というイメージの束縛から逃れた”宇宙による未来主義的再構成”が可能になるとする特異な身体=機械というヴィジョンを提示したのだ。
こうした未来派で見られたような特殊な劇場空間の構成は、当時ロシアでも進められていて、まずアレクサンドラ・エクステルが1916年に《ファミラ・キファレート》で俳優の身体を物体として扱う方向を打ち出した。これは、動くオブジェを登場させ、それを抽象的な舞台空間へ融合させてゆこうとするもので、彼女のダイナミックな舞台装置は従来の平面 的で、一元的な舞台とは大きく異なり、平面や斜面を一つのエレメントとして自由にコントロールしている。また彼女がデザインした衣装は、機械の彫刻とでもよべるものでありレジエの機械絵画の影響を受けていることにも注目したい。
また、同じ年にはニコライ・フォレッゲルが、演劇「パラディ・ショー」を計画し、環境機械としての演出と、そこで演技を行う俳優のための“タフィアトレナージュ”と名付けられた肉体訓練の新しい体系作りを目指していた。その肉体訓練は、踊手の身体を機械とし、筋肉を機械操縦者とする考えを実現するためのものであった。1923年に初演されたフォレッゲルの「機械的舞踊」(図1)は、二人の男の間を数人の女性がつながってチェーンのように動いたり、二人の男が一人の女をノコギリのように前後に動かしたりするものであった。
こうした動的な方向をさらに精密に展開させたのが、ウラジミール・タトリンである。彼の「第三インターナショナル記念塔」(1920)(図2)は、劇場空間ではなく、機械化による建築と彫刻の融合を目指したものであるが、そこでは革命のための芸術が追求され自らの作品を科学と産業による未来社会のダイナミズムを表出する機械文化の真髄にしたいという願いが込められている。それは時代の先端をいく鉄とガラスで構成された建築に光と映像の技術を組み込んだ総合的なモニュメントであり、まさにロシア・アヴァンギャルドのシンボルとなるはずのものであった。-タトリンは未来派のマリネッティと同じように機械は”機械の心”を持つことを主張し、この塔が動く部分を持つのは、それが人間の心臓のような働きをして欲しいと思ったからだと語っている。タトリンの第三インターナショナル記念塔は結局実現できなかったが、多くの芸術家、政治家に強いインスピレーションを与えた。彼の思想や理論はヨーロッパでは特にドイツで広く受容され、ワイマールに設立されたバウハウスは、タトリンの教育に対する考え方を取り入れたプログラムに従って構想されたものである。タトリンは、”最高に美しい形態は、最高に経済的なものである。”という考えを生み、この方向は、”芸術はテクノロジーの中へ吸い込まれて行く”という彼の有名な言葉へとつながり、エル・リシツキーやモホリ・ナジへも受け継がれて行く。
モホリ・ナジは、1923年にバウハウスの教授として招かれ、そこで芸術家、研究者、教育者としての新しい段階を迎える。ある意味でバウハウスの教育方針を決定したナジの考えは、20世紀には19世紀とは異質な様々な発明、材質構成法、科学などがあらわれて人間を圧倒し、これまで認められてきた古い伝統の機構よりも、正確な知識や広い関係に対する強力な管理、適応性などを必要とする問題が生まれてきているということであった。 未来派やロシア構成主義の中で見られた舞台を含む劇場空間の機械化と、人間の身体を機械へ同化させようという表現の実験は、バウハウスにおいても繰り広げられた。1921年にバウハウスに加わったオスカー・シュレンマーは、1929年まで演劇セクションを受け持っていた。シュレンマーは、人間のパフォーマンスが行われるステージを空間として捉え、その中に形態と色彩 による造形的構成をつくり、そうした抽象的空間の中で人間が動くシステムを機能させようとした。したがってシュレンマーの舞台においては解析手法として立体幾何学的な線の網目が描かれ、人間の身体にも図形や数学が内在し、人体運動、リズム体操、体育の幾何学などの動きに対応するものであった。シュレンマーは作品の中で身体の運動を、“技術的有機体”として捉え、この観点はまさに当時の機械技術が要請していたものであり、バウハウスの芸術がいかに機械技術へ接近しようとしていたかを示すことができる。シュレンマーは、機械化と抽象化の果 てに不意にあらわれるものが、自由で純粋な人形のような運動が、人間の原始的な状態であることを直感し、人間の原存在への帰還が、ある機械的な形式や技術の洗練の果 てに成し遂げられるのだという信念を持っていたのである。
しかし、機械空間を賛美したリシツキーも、1920年代末にはゆきすぎた機械美学や機械に対する過大評価に気付き、機械が宇宙を語る道具としては未熟であり、機械は人間を自然から切り離したのではなく、機械を通 して人間は今までに見えなかった自然を発見したのだと指摘するようになった。上でみてきたようなマシン・エイジを経て現代のテクノロジー・アートが成立しているわけであるが、こういった時代があったからこそ、現代のテクノロジーが向かう方向性が、明確になってきたといえるかもしれない。